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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

随筆 風の路 5

秋日和

 猛暑続きの夏が過ぎてようやく秋らしくなっている。猛暑に慣れた体が秋の季節に順応するには少し時間がかかる。タオルケットから直ぐに大布団という具合である。医院は風邪の患者であふれている。体調を崩している人は多いだろう。インフルエンザの予防注射をする人も日増しに多くなっている。今年は風の日がすくなかった。全国各地に突発的に集中豪雨が起きた。その被害状況は殆ど毎日報道されていた。今年は台風が私の住む町には来なかった。比較的台風は来ないのだが今年は風が吹くことはなかった。
 秋日和の日、私はパソコンの前から外へ出てみた。風が冬のように寒く感じた。草花は風になびきそれでも華麗に咲き誇っている。             野暮な男だから花の名など知らないがそれでも薔薇とか秋桜は知っている。今年、薔薇の挿し木をしてみた。一本あるバラの花があまり綺麗だったので増やそうと思ったのだ。挿し木が付くとそれをクローン木と言い元木と同じ頃に花を咲かすと言うことも最近知った。十本挿し木をして六本付いた。その中で二本が暑いさなか花びらを付けた。そこに自然の命を見た。繰り返される自然の営みは動植物の交配による命の継続であることを知った。薔薇は花片を散らし小振りな実を付ける。その実が人間によって食されると体の保温に役立つと言うことを本を読んで知った。実は乾いて種となり地に落ちて時期が来ると芽を出し葉を茂らせて花を開くのだ。種を植えたが芽を出さなかった。時期が悪かったのだろう。庭の薔薇が春と秋に咲くことも知らなかったのだが、その馥郁たる香りは一年中でも嗅ぎたいと思うのだ。薔薇は香水の原料になるゆえんが理解できる。
 この歳になって人の美しさと醜さを知ることになるとは歳を取りたくないものだ。人は元々美しいものなのだがそれを醜くするのは人なのだろう。成長の段階で人も花を咲かし、美しいと褒め称えられそれを維持することが出来ずに花びらを散らし枯れていく定めをものの哀れと言うのか。それはひとときの自然の戯れなのか。花のそれが人にも当てはまるというのか。土壌が美しい花を開かせるのと同じように人間も環境でいかようにも開く花の色と美しさを変えるのか。考えてみると人も自然の営みの中では小さな生き物なのだ。だかに自然の中の何ものにも当て嵌めることが出来るのだ。薔薇は花をとられまいとして幹に棘をもち、人は弄ばれまいとして理性を育てた。理性は自己犠牲を嫌う、そんな人が多くなった。人間関係がぎくしゃくする時代を作った。人はそんなときにどんな花を咲かせるのだろう。
 川の上を通り過ぎてきた風が頬に当たって心地良い。農繁期を過ぎた川には水が少なくなっている。じっと目をこらすと流れに逆らって泳ぐ小さな魚が見える。ホッと一息、頬がゆるむ。綿菓子をつまんで投げたような雲が広がっている。秋を実感することが出来る。
抜けるような青空の中を名も知らぬ鳥がさえずりながら飛翔している。翼を広げ気流をうまく利用して流れていく。山が何時しか緑を薄い赤に変えている。所々から田で藁を焼いている煙が立ち上り収穫を終えた後始末をしている。その煙が白く立ち上り青い澄んだ中へ広がっていく。秋の風情は心をいやしてくれ感傷的になる。
 秋を肌で感じている。今までそんなことはなかった。何もそんなに忙しかったのではないが感じることはなかった。やはり歳なのかと言う感慨にふける。今まで何を見詰めて生きてきたのかと反省をするがそれは過ぎたことで帰らない。いま、この歳になって自然の恵みを考えることが出来ることをうれしいと思う。もっと若かった頃に見えていたら違った生き方が出来たのかも知れないと思うが果たして今のように見えただろうか。穏やかに花を愛で鳥たちの囀りと渡る姿を和やかな心で見ることが出来たであろうか。川で泳ぐ小魚をじっと眺める精神的な余裕があったであろうか。歳を取るのも悪くないと思う。喩え人の醜さに出会ってもなお人を慈しむ心があるならばこれからもふれあいたいと思う。
 春に植えた花が枯れかけたので春まで咲く苗を買ってきて植えた。
それらを朝起きて見て回った。下手に植えた苗が朝露を受けて元気に花を開いている。良かった、と言葉を落とす。花は人と同じで可愛がりすぎると駄目になる。試練を与えた方が強く生きる力を養いへこたれることなく自分の作る。水をやりすぎると根腐れを起こして壊れていく様にほっとくという事の重要性に気づく。育てるという事は自然の中に放置してその中で生きる力を持たせる、自立、と言うことなのであろう。野にある花たちはそのように生きているのだから。人にも当て嵌まるだろう。
 今の人はどうだろう。自然の恵みを感じなくなっているのか、動物としての自然の恵みを受け取るすべを持ち合わせなくなっているのか、文明の中で享受することを重要視して忘れたのか。
 自然に帰れと言った哲人がいたが、まさに至言である。
 花を魚を鳥を空を山を見詰めながら心に余裕を持って生きることが、今、問われているのではないだろうか。
 若い頃、星を眺める時の切ない心を持たない方がいいという童話を書いたが、それは今思うと間違っていたのかも知れない。
孫を夜外に抱いて出ると空を指さして星という姿に驚く。そこには一番星が瞬いている。
私はそんなロマンを持ち合わせて生きて来なかったのか、もっと星を見詰め瞑想して生き方を考えなくてはならなかったとつくづく思う。
そんな歳になっている・・・。やはり物思う秋なのか・・・。

紅葉

 出不精の私が紅葉狩りに行ったと言えば小学生のころ遠足で行ったことがあるだけだ。この歳になっても粋人ではないので紅葉を愛でる趣味はない。まだ綺麗な物を綺麗だと言う心境には成れないし余裕もないのだ。私にはまだ自然の景観に感嘆する人の域に達してないのかも知れない。身近の美に対してのみ心動く小さな心しかないのかも知れない。つまり幼稚な精神しか持ち合わせてないと言うことなのだ。身近な雑事がある訳ではないが看たいという欲望が全くないのだ。人が春には櫻を愛で、夏には海水浴に興じ、秋には紅葉狩りを楽しみ、冬には樹氷をと忙しく立ち舞うのが理解できないのだ。時間は限りなくあるが行ってまで看たいと思わないのだ。そこにあれば見るだろうが。要するに美に関して横着なのだ。このような精神になったのには訳がある。子供達がまた幼かった頃には車に乗せて何処や彼処によく行ったものだ。だが、子供が少し大きくなり友達と遊ぶことの方を優先しだしてからは何処へも行っていない。三十を半分過ぎた頃に自立神経失調症にかかってからは余計に出なくなった。それが昂じて鬱になり家から出るのが怖くて外には一歩も出なくなった。出るときには家人を同伴させた。そんな私に自然の美に感嘆する資格はなかった。いわゆる閉じこもりなのであった。今様の人たちの閉じこもりとは違うが。
 だが、鬱がだんだん良くなって行く中で「演劇人会議」の実行委員をしていたときには東京へ這い這い一人で出かけた。東京駅で中央線へ乗り換える階段の多さには閉口した。今はエスカレーターがついていて便利になったが当時はなかった。新宿大久保のホテルまでよたよたしながら行った。倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるだろうという思いであった。そんな私が家人と旅が出来るとは思わなかった。鬱を抱えていたときに篠田正浩監督の映画のに二ヶ月間参加してやり遂げた後少しは自信が付いた。その後監督とは三本の映画制作に参加した。このことは前に書いたことなので省略するが、監督との仕事で鬱と少しは離別できた。その間十年間子供達に演劇を教えて公演することで完治とは行かないまでも完治に近づいていた。二十数年間は鬱との戦いであり人生で一番動き充実した日々であった。鬱の苦しみを鬱を治すために誰かがくれた試練だったと言えるかも知れない。
 そんな私が自然の美と仲良くできるはずもなかったのだ。
 今年の春は家族八名で道後温泉へ行った。子供達がそれぞれ独立し家族を持って初めての旅行だった。春にはそのようなことがあったが紅葉狩りへの興味は湧いていない。
「紅葉狩りにでも出かけましょうよ」と家人は言うが今のところその言葉に答えてやれない。鬱を患ってからタオルの中に保冷剤を入れて額に巻いている。その保冷剤が1時間しか持たなくて溶けるとたちまち頭痛がするのだ。前の大きな車には保冷庫がついていたが今の車には付いていないので頭を冷やすすべがないのだ。だから躊躇するのだ。車でなくても新幹線でも一緒なのだ。頭を冷やす事は癖なのかも知れないとタオルを外して見たが一日が背一杯であった。筋収縮性頭痛なら冷やすと余計に血管が収縮し頭痛が酷くなるのだがそうではなく冷やさなければ痛くなると言う持病があって遠くへの外出は駄目と決めているのだ。国民文化祭の時に二日間会場に付いていたがタオルを濡らしにトイレに何回も通ったのだ。
 紅葉狩りも良いがこんな状態では無理だろうと決めているところがある。
 春の温泉旅行の時に秋には少し足を伸ばして伊勢にでも行くかという話があったのだが今のところその話題はない。
 東京の会議には四年間でほど三十回ほど人の善意を当てにして出たがその都度無事に帰ることが出来たのだ。あのときの気分で出る気になれば出られると思うが億劫が先に立つのだ。
 長年支えてくれた家人の願いを叶えてやりたいと北海道への旅を計画中だが、私の場合は先が見えなくてその日にキャンセルをするかも知れないと思うと躊躇するのだ。癖が悪くて朝早く起きられないから徹夜で行くことになり良く不測の思いが芽生えてキャンセルになるのだ。まだ鬱とは完全に決別が出来ていないと感ずる。
車は何不自由もなく乗ることが出来ている。家人を助手席に乗せなくても夜中でも何処へでも行けるようになっている。深夜六みんなが寝静まっても一人でパソコンの前で朝まで座ることも出来ている。
 やはり気のものなのか・・・。
 燃えるような紅葉を見れば私の心も赤く灯が付くだろうか。それが克服を祝う灯火であれば良いのだが。
 ここまで書いて、
 今年は紅葉がりをしに行っても良いかという気になっている。高梁川の流れを左に見て北へ走り・・・。


 佇む秋

 秋は冬と違った静けさがある。そう感じたのはやはりこの歳になってからである。緑なした葉は紅葉してやがて落葉し地面を覆う。一面に枯れ葉を敷き詰めたような佇まいになる。人通りがあっても静けさを感じる。わびさびの世界へ誘ってくれ静寂を肌に感じることが出来る。その少し肌寒い澄んだ空気が心まで引き締めてくれるよう。
 春と秋のどちらが良いかと問われたら秋ですよと答えるだろう。春は心浮き立ち多感でもないのに何も手に付かなく、秋は心を安らかにしてくれ何事にも集中させてくれる。
若い頃は春も秋もあまり好きではなかった。寧ろ厳しい夏と冬の方が好きで創作に向いていた。汗だくになり、重ね着をする現実の方が私の性に合っていたのだ。
 還暦を迎えた頃から夏と冬があまり好きではなくなった。それは暑さと寒さに弱くなった所為かも知れない。春のけだるさが、ひなたぼっこが出来る丁度良い温かさが体に合ってきたのかも知れない。秋の少し涼しい風が緊張感を持たせてくれ考える時間を提供してくれるのが体に合ってきた。
 春と秋のどちらが好きかと問われたら秋ですよと答えるだろう。
 歳ともに自然の中に同居する自分を感じている。思えばそれが佇む秋なのかも知れない。蕭々とふく風と一体となって空を飛んでいるような感覚にとらわれるのは秋なのである。想像力が、集中力が増すのはやはり秋なのである。歳とともにその感は深くなっている。
月の満ち干きにも、満点の輝く星にも心が動き下手な詩を口ずさんでしまう。秋はいかほどの人をもロマンチィクにする。無粋な私に何か考えなくてはならない様な感覚にさせる。佇む人にしてくれる。
秋の空気を吸うのも好きです。肺堂に新鮮な空気を一杯吸いたいと思わせる。
 こんな感慨を持つようになったのは還暦が過ぎた頃からだった。
私の場合は特殊なのかも知れない。今まで秋を蔑ろにしていたから余計に感ずるのかも知れない。秋は私を哲学者にしてくれる、思想家にしてくれる、詩人にも・・・。
 歳をとると現実的になると言うが、今更ロマンもないが何かが叶い出来そうな予感を持つことが出来る。秋は夢を実現してくれる時に変わる。厳しい冬にむかわせる秋のひとときはそれを乗り越える力をくれる。
 人恋しくなって訪ねたくなるのも秋、自然の景観を楽しむのも秋、
佇む秋なのだ。
 私の好きな童謡に、「赤とんぼ」「里の秋」がある。舞台でよく使うのは「赤とんぼ」である。子供達に舞台で歌って貰う。効果として流す。ホリゾントを夕焼けに染めて歌い、流すのだ。最近は特によく使う。それが私の郷愁であり心のふるさとのように。
 私のふるさとは何処なのだろうと思う。父と母の墓があるのは讃岐平野の飯山の南にある市街化された真ん中に残されている里山の中にある法軍寺。私が産まれたのは疎開をしていたいまの岡山の市街地になっている東畦というところ。育ったのは岡山市内の東古松、今住んでいるのは倉敷水島福田町。それぞれがふるさとだと言う思いはある。だが、父と母の眠るぽつんと残された里山が一番ふるさとにふさわしいと思っている。秋を感じることの出来る場所であるからなのだろうか。父はその里山で生まれ里山で眠っている。
 父が老いてからの口癖は産まれた場所に帰りたいというものであった。歳を取って思うに多少無理をしてもその願いを叶えてやらなかったかと言うことだ。私も帰るふるさとがあればそう言うだろうと思うからだ。ふるさとという言葉に秋を感じるのは私一人であろうか。
 四季のある日本では秋は神仏の行事が多い気がする。秋は神事、仏事をするのに最適な季節なのだろう。手を合わせたくなり、祈りたくなり、自らを振り返るのには秋の静かな佇まいがあう。季語も有り余るほどある。それは秋をこよなく愛した人たちが沢山いたという事か。
 これは直接関係ないが、
 小説家の南木佳士さんは芥川の作品の中でどれが秀作かを問われ「秋」と答えている。芥川が男と女の別れを書いたものの題名がなぜ秋なのか、ものの哀れを秋に喩えたのか・・・。
 秋の佇まいにものの哀れを感じるから日本人は秋が好きなのだろう。
 これからも佇む秋を感じ考えながら生きていかなければならない。
静まり返り物音一つしない空間の中に老いた身を置いて何かを感じるために・・・。
 若かった頃のことども思い出ししばし遊ぶために・・・。そして、考えてもどうしょうもないこれからの道のりのために・・・。
 秋はそんな感慨をもたらしてくれる。
 秋は老いてゆく孤独を優しく包んでくれる、孤独の中でつぶやくと秋の景色は大らかに受け止めてくれ中へとけ込むような気がする。
 四季の中でそんな秋が好きになっている。


 宮武外骨について

 皆さんは宮武外骨という御仁をご存じだろうか。
 讃岐が生んだ反骨精神旺盛な変わり者のことを。江戸時代の平賀源内、明治の外骨とちまたで評判の健筆家で健啖家でもあった。
「滑稽新聞」を初め当局に発禁をされると新しい雑誌、新聞を次々と送り出し世の中を滑らかに考える事の重要性を説き、その都度投獄され獄中にあって書き続けた。その数や今のはやりの作家とは比べ物にならない。天皇を不敬し、政治家を愚弄しなめ回し、経済問題、外交問題、道徳常識を蹴散らかし、庶民の思いを代弁し、あらゆる事を新聞、雑誌に書き訴え続けた人である。八十八歳でなくなるまで盛んにほえまくった人でもあった。
 次に東京朝日新聞に出した自らの広告を載せます。「当時五十八歳になっても、マダ知識欲の失せない古書研究家、探しているものをいちいち挙げれば、新聞全紙を埋めても足りない。それよりか自分一身上の大問題について探しているものを申し上げる。亡妻の墓を建てない墳墓廃止論の実行、養女廃嫡のために宮武をやめた廃姓廃家の実行、今は一人身で子孫のために計る心配はないが、ただ自分死後の肉体をかたづけることに心配している。友達が何とかしてくれるだろうとは思うが、墓を建てられると今の主張に反する。自認稀代[世にまれな]のスネモノ、灰にして棄てられるのも借しい気がする。そこでこの死後の肉体を買い取ってくれる人を探している。ただしそれには条件が付く。かりに千円(死馬の骨と同額)で買い取るとすれば、その契約[と]同時に半金五百円を保証金として前はらいにもらい、あとの半金は死体と引き換え(友達の呑み料)、それで前取りの半金は死体の解剖料と骸骨箱入りの保存料として東大医学部精神科へ前納しておく。ゆえに死体は引き取らないで、すぐに同科へ寄付してよろしい。半狂堂主人[外骨]の死体解剖骸骨保存、呉秀三博士と杉田直樹博士が待ち受けているはず。オイサキの短い者です。至急申し込みを要する。」
 こんな広告を出すだろうか、外骨ならではの物である。
(幼名を「亀四郎」というが、その名を戸籍上も正当な「外骨」などという奇想天外な名にしてしまった男を記憶にとどめたい。ジャーナリストとしての最晩年を明治新聞雑誌文庫創設に捧げ、退職後は自叙伝の大成につとめたが、足腰の衰えはいかんともしがたく老衰のため四人目の妻、能子に看取られ昭和三十三年のこの日、天寿を全うした。
 尋常な人間の感覚では焦点を結ぶことが出来ないであろう。宮武外骨の駆け抜けた生涯を追いかけることは、あまりにも無謀だと気づかされるのに一時もいらなかったが、偶然にも訪ねあてたこの霊園の石碑、木陰でひっそりと佇んでいる「宮武外骨霊位」墓は、正岡子規・尾崎紅葉・夏目漱石・幸田露伴など大家と呼ばれる文士と生まれ年を一にする男。「我地球上に在って風致の美もなく生産の実もなくして、いたずらに広い面積を占めている」と墳墓廃止論を唱えた男。一代の危険人物の奇妙な形の碑であった。)(吉野孝雄さんの文章を写す)
 この人に触発され劇団滑稽座を創設したのだが、父の郷里の奇人には足下にも及ばない。
以下は主だった執筆物をのせます。全部外骨が社主をし書いている物。
「頓智協会雑誌』 『滑稽新聞』 『大阪滑稽新聞』『教育畫報ハート』 『此花』  浮世絵専門誌『日刊新聞不二』『雑誌不二』『ザックバラン』『スコブル』 『民本主義』 『赤』 『震災画報』『面白半分』 『筆禍史』『幸徳一派 大逆事件顛末』
「アメリカ様」『筆禍史』「滑稽界」「東京滑稽」「江戸ツ子」「ポテン」「滑稽雑誌」「釜山滑稽新聞」「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」このほか自著や辞典やアンソロジーめいた出版物が数かぎりなくある。
 こんな物ではない世の中のあらゆる物を書き下した。女のほとの解説も。墓の無用論、姓名のくだらなさ、古代史、書画骨董にも精通していた。何処で学んだか、驚くことに殆どが独学なのである。
 朝日新聞は尻を拭くのに最適な紙という言葉で想像願いたい。
 滑稽、頓智、酔狂、癇癪、色気、洒落、反骨、風刺、愛嬌、正義、それらが外骨の精神の神髄なのである。
 私がなぜ外骨をのせたかは今のメディアに命をかけてその使命を全うしている人がいるかと言う義憤からである。まして文化人と称している人たちの中にこの気概を持っている人がいないと言うことを残念に思っているからでもある。
 今必要なのは坂本龍馬ではなく宮武外骨の出現を待っている人がいることを伝えたかったのである。
 このような新聞があれば喜んでとって読みたいと思う。また、文化人の中に破天荒な常識破りな考えの人が現れこの堕落している日本国民を目覚めさせてくれることを願ってもいる。

外骨の研究家の吉野孚雄さんの文章を全部引用すると、
まだまだいっぱいあるが、だいたいがこんな具合だ。このほか自著や辞典やアンソロジーめいた出版物が数かぎりなくある。ぼくは『筆禍史』に瞠目した。 ともかく出しまくっている。 ぼくの畏敬する友人に京都の武田好史君がいるのだが、彼は創刊誌を3号以上もたせなかったのは “立派” なのだが、それでもまだ3~4誌しか潰していない。もう一人、グラフィックデザイナーの羽良多平吉君は、メディアを作るのが大好きなのでいつも雑誌の予告をしつづけていて、これがめったに出ないという “立派” をかこっているが、外骨にくらべると「実行即退却」の果敢なスピードがあまりにもなく、 “派手” がない。まず、作ることである。 もちろんこんな外骨が順風満帆であるわけはない。援助者やスポンサーも跡を断たなかったものの、絶対に長続きしていない。「頓智と滑稽」は発行者には博報堂の瀬木博尚が買って出て、「骨董協会雑誌」には富岡鉄斎や久保田米遷や今泉雄作が、「不二」には小林一三が協力したけれど、誰も恩恵に浴さなかった。ただし、そういう外骨が嫌われたという記録はほとんどない。 もちろん他人に協力を仰いでは潰しているのだから借金も多く、骨董関係の仕事をしていたときは、借金を逃れて台湾に渡り、養鶏業などに手を出して捲土重来をめざしている。が、この程度の退却は外骨の人生にとってはジョーシキあるいはコッケーのうちなのである。
 ヒットもあった。大ヒットもあった。なかで特筆すべきは「滑稽新聞」である。これは台湾から戻ってさすがに東京に顔を出せず、大阪に陣取ったのがよかった。 京町掘の福田友吉の印刷出版社福田堂と組んで、そのころ大阪を席巻していた池辺三山の「大阪朝日新聞」の国権主義、小松原英太郎の「大阪毎日新聞」の実業主義を向こうにまわし、あえてこれらに挑発しながら切り込んだ。こういうヨミが外骨のおもしろいところで、決してニッチや隙間産業など狙わない。それなのに、なんと創刊7万部を売った。そのころの「文芸倶楽部」が3万部、「新小説」「ホトトギス」などが5000部から1万部程度、北沢楽天の「東京パック」の絶頂期さえ9000部だったから、この売れ行きはそうとうに凄まじい。いっときは8万部に達した。 このときのコンセプトが「癇癪と色気」なのである。 調べてみると、この「滑稽新聞」はまことに多様な亜流を生んでいる。大阪で「いろは新聞」が、東京で「東京滑稽新聞」「あづま滑稽新聞」「滑稽界」「東京滑稽」「江戸ツ子」が、京都で「ポテン」「滑稽雑誌」が、韓国でも「釜山滑稽新聞」が作られた。まさに外骨ブーム。外骨自身も「滑稽新聞」が筆禍によって自殺号に至ると、「大阪滑稽新聞」という衣替えを遊んだ。 ぼくも多少のことをしてきたのでわかるのだが、いかに孤立無援の編集をしていようとも、しばらくするとだいたいエピゴーネンや亜流やヴァージョンが世の中のどこかに出てくるもので、それが見えれば自分が試みてきたことが妥当だったことがすぐにわかるものなのだ。 ところがマーケティングをしすぎたり、世の中の評判を気にしたりして、たいていはそれ以前に企画倒れになっていることが多い。突撃精神というのか、試作精神がなさすぎる。
 ところで、外骨はメディアをつくるとともに、つねにクラブやサロンの組織を作るか、連動するかを図っている。「滑稽新聞」のときも大阪壮士倶楽部と組んだ。中江兆民が大阪に出入りしていたころのことである。 骨董雑誌や浮世絵雑誌「此花」や日刊新聞「不二」を作ったときも、こういうクラブやサロンが動いていた。外骨はそういうときに必ずや才能のある新人の抜擢を怠らない。「此花」の南方熊楠や大槻如電や渡辺霞亭、「不二」の折口信夫や正宗白鳥や谷崎潤一郎や鈴木三重吉たちである。 かように、いろいろ刺激の多い外骨ではあるが、ひとつ気にいらないこともある。ついつい議員に立候補したことだ。これは与謝野鉄幹・馬場孤蝶・長田秋濤にもあてはまることであるが、これで男が廃った。少なくともぼくはそう断じている。ただ外骨はこの失敗で吉野作造の民本主義にめざめ、晩年はあいかわらず編集遊びはやめなかったものの、新渡戸稲造・大山郁夫・三宅雪嶺・左右田喜一郎らの「黎明会」にかかわって、官僚政治討伐・大正維新建設の“操觚者”としての本来の活動に邁進していった。
 さて、このような外骨の編集王ぶりで最もぼくが感服したメディアを、最後にあげておく。 これは50歳のときに刊行した大正5年発売の「袋雑誌」というもので、次の12種類の雑誌印刷物を一袋に放りこんだ前代未聞の立体メディア、福袋やビニ本のように買わなければ中身はわからないという代物だった。外骨の作った雑誌と他人の雑誌が入り交じっている。 すなわち、「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」などの自己編集ものに、貝塚渋六こと堺利彦主筆の「俚諺研究」、長尾藻城の「漢方医学雑誌」、溝口白羊の「犬猫新聞」、安成貞雄の「YOTA」などを織り交ぜた。 福袋のようにただ投げこんだのではない。全体を総合雑誌のような体裁にして、目次だけはまとめて綴じ、そのほかは分冊製本したのである。発行人は「東京パック」の有楽社の中村弥次郎が天来社をおこして、引き受けた。もっともあまりに資金をかけすぎて、これは第2号の予告であえなく挫折した。 しかし、この発想は群を抜いている。ひとつは、お上がそのうちの一つの内容を発禁にしようとしても、12種類の雑誌すべてを反故にできないだろうという防衛策があった。もうひとつは、「メディアは互いに連動する」という判断だ。ぼくも以前、「遊」と「エピステーメー」を一冊にするアイディアをもったことがあるが、これは言うは易く、なかなか実現しにくい。それでもいまや、ウェブ上のホームページたちがその壮挙をなんなく、ただし無自覚に実現してしまった。外骨の先見の明というべきである。 けれども、いまだにウェブ上のホームページやサイトは“袋詰め”されてはいないのだ。そろそろ“電子の宮武外骨”が現れて、「滑稽」や「癇癪」に代わる方法をもってウェブ社会を煙に巻くべきではあるまいか。
参考¶宮武外骨の著述なら『宮武外骨著作集』全8巻(河出書房新社)と『宮武外骨 此中にあり』全26巻(ゆまに書房)がある。河出のものは10年前に、ゆまに版は5年前に完結した。これは壮挙であった。痛快無比な文章だけを『予は危険人物なり』(ちくま文庫)がまとめた。本書の著書の吉野孝雄には『過激にして愛嬌あり』(ちくま文庫)などもある。著者は高校の先生。

食欲の秋なのか

 秋は本を読んで論理や倫理や理性や感性や思想哲学や・・・あらゆる知識をかみ砕き身につけて心を養う事なのか。それを食欲の秋というのか。とするならば私には秋を語るすべはない。

 私は人生勉強をおろそかにしさぼってきた。今思うと若い頃買った本を片っ端から読んでいれば身につけていればと言う後悔がある。そうしていたら老いて心をひからびさせないですんでいたであろう。生きていく指針が揺れることもなかったであろう。生活が貧しかったという境遇を弁明は出来ない。貧しさの上にも精神的な生活をしていれば咲いたはずである。それが小さな一輪の草花にしてもだ。若かった頃はそれに気づかなかった。野辺にけなげに咲く小さな花を見ようとはしなかった。星を眺めて願い事をするというロマンはなかった。そんな私は何を見、読んだのだろうか。忘れる為の読書をし身につく読書生活をしていなかったと言える。その頃の私は本を沢山買い込んで書く為の資料としたのだ。殆どが積ん読であった。著者は読み手が心の肥やしになることを望んでいたのを忘れ必要なところだけを横着に切り取っていたのだ。書き手は書く時間より読む時間をより多くとり愉しい読書をしているものだと言うことを知ったのは最近見たテレビで小説家の浅田次郎さんが言っていた。私は書いている時に読むと影響されるからと言う理由で読まなかった。読書に楽しさを見いだしていなかったと言うことなのか。最近、南木佳士さんの随筆、小説を全作むさぼるようにして読んだのだが。そんな経験は若い頃はなかった。若い頃は楽しむというより苦しんで読んだ物だ。読んでなかったらみんなから遅れると言う物だった。私は読書の本来の意味を忘れて研究書を読むように小説、戯曲を読んでいたのだ。ロシア文学も登場人物の名前の長さにうんざりしながら苦痛の中で読んだ。ラシーヌの戯曲の一人の台詞の長さにまだ続くのかという気持ちで読んだものだ。シェクスピアーの戯曲をあまり読まなかったもの比喩の多さに辟易しながらであったからだ。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などは字面をおっただけで、菊池寛は愉しく読んだ。チエホフの戯曲には心奪われて読んだが。要するに好きな作家の本は丁寧に読んだが私にとってどうでも言い作家のものは斜めに読んだことになる。その斜め読みは心に何も残してはくれなかった。読んだという記憶だけが残っているだけだ。それらを楽しんで読んでいたら今の生き方がもっと充実し愉しくなっていたであろうと思う。
 遅いか、まだまだこれからと言えるか。今持っているもので生きるしかない。小さな器に盛る料理は幾ら豪勢にしてもそれだけの見栄えしかしない。仕方がない、そのように生きた結果なのだから。
 私はくる者は拒まず去る人は引き留めはしなかった。人の成長に手を貸して自らが成長する路を選んできた。そのことは間違っているとは言えまい。だが、その人のために語った事でその人は傷つき前から消えた人もいる。悪い癖で直接的に話す性格がある。言葉をオブラードに包むことをしなかった。本当のことを言うことがその人の為になると思ったからだが、そのことで傷ついた人がいたことに反省をしなくてはならないのか。私だったらこうする、このように考えた方がいい思うとついつい言ってしまう。言葉はむずかしいものだ。相手を考えて租借した言葉で伝えなくてはならなかったものが、相手の心にひっかかり思いだけが伝わり誤解を招くこと多々あった。あの頃は酷いことを言ったなーと思うこともある。若気の至りだとは言えない。
 先輩から勧められサルトル、ジイド、カミュ、の作品を読んだ。いわゆる実存主義の作品群をである。哲学はデカンショを読んだ。デカルト、カント、ショーペンハウエルである。それらはいかほどの私の人間形成に役立ったというのだろう。ただ読んだだけですべて忘れている。その頃の私は読んで忘れることの大切さを実践していたと言える。普通人より少しだけ読んだ本が多かっただけである。私は読んでえたものを覚えることが苦手で、人の様にすらすらと引用できない。感銘を受けたものですら1行も覚えておらず誰々がこう言った、書いていると言うことは出来ない。だが、忘れていても体の中に少しは残っていて書く上で役立っていることは否めない。
 今も読むのだがそのままを引用することは出来ない。直ぐに忘れるという特質がある。本を読んでも租借しないで体外へ出していると言うことなのだ。
 それでは精神を養うことは出来ない。が、時折これを私が書いたのかと言う驚きがあることは何かの蓄積が存在し手いるのかも知れない。それを降臨と言うことにしているが。
 つまり降臨は読書の産物である気がしている。
 秋、食べるように本を読む、それは腹にたまるのではなく心の肥やしになっているものだと感じる。
 本当の食欲の秋を感じなかった事を今更のように後悔をする。今になってもっと真剣に本を読み生きていたらと言う反省が沸々と心をさいなむのだ。だが、斜め読みも熟読したものもすっかり忘れているが濾過されて心の中に残っている、それを食欲の記憶という事にしている。何をしても何かが残るものらしい。
 老いてよりその感は増しているが・・・。
 何でも美味しく食べられる幸せを感謝しなくてはいけないと・・・。

母のこと

 母は丸亀藩の儒学者の家系に産まれている。辻邦生さんの母は丸亀藩の漢学者の家系の人である。母は明治三十何年、藩がなくなってから様々な変動があり農家になった家に生まれている。兄二人姉一人の四人兄姉の末っ子としてこの世に生を受けた。十五歳で父と所帯を持った。大正時代の田舎のことだからまず恋愛ではなかろう。父の家柄は高松藩の家老の家系、同じもと藩士と言うことで釣り合いがとれての見合いだろう。讃岐富士を東と西から眺め育っていた。
 母は私を四十の時に産んだ。産めや増やせの時代だったから余分に産まれたのが私である。結婚して直ぐに何処で暮らしたいたのか知らない。姉の言葉により推測すると神戸の三宮という線か浮かび上がる。父は神戸とは縁がある。神戸外大の前身の語学専門学校を出ている。押し車に乗った半畳程の英語の辞書をめくったと聞いている。そこを出て貿易の仕事を始めた頃母と結婚をしたらしい。三宮の駅前が最初の住まいであった。そこを新居にして貿易の店を開いていた。母は兄二人と姉二人を産んでいる。父は兄二人を連れて良く花街へ出かけたらしい。兄二人は知り合いに預けてのこと。父は六カ国語を話した。母に知られたくないときには英語を話し遊郭へ遊びに行ったという。神戸時代、母はハイカラさんだったという。父はシンガポール、香港、台北、大連、と支店を出して忙しくしていた中を母はその留守を守ることが多かったという。その当時の父と母の写真を見ると大きさが一定ではなく切り取った後が見られたの聞いて見ると母がはさみを入れたという。父の側には女性が映っていてそれを切り取ったらしいことが分かった。おとなしい母の焼き餅焼きの一面がかいま見られたのだった。女遊びの激しかった父を母はどのように接してきたのだろうと思う。一度母は私が大きくなって物心がついたころ、
「何回も別れようと思うた」と言葉を落としたものだ。
「妾を持つのは男の甲斐性」という明治生まれの父とそれに耐えた母の軌跡は今になっては読み取ることは出来ない。
「子供がおらなんだら・・・」とこぼした言葉が母の心を披瀝しているように思う。お金があっても幸せではなかったろう。母の上に
子供達の為に家庭を維持する明治の女の姿を見ることが出来る。
 神戸三宮の生活も大連支店の会計が女に入れあげて破産し祖父の住む岡山に帰ってくると言うことで終わっている。世渡り上手の父は大成建設や佐伯組や阪神築港に身を置き軍事色が強くなっていた当時に岡山空港の建設に携わったり、児島湖の干拓で堤防を築き浚渫船を操り干潟を作っていたという。貿易商が土建屋に華麗に変身したのだ。その頃は当時の金で何億という金を持っていたと言う。相変わらず女遊びには励み妾を囲っていたという。お金があっても母はしあわせではなかったのだ。長男は戦死、次男は母の兄に養子に出してブラジルへ、娘二人と後から産まれた三男と私が生きる糧になっていたという。父は戦争には行かなかった。軍属として日本で奉公していたのだ。戦争が終わっても父の命運はつきてなかった。みんなひもじい生活をしていたが米の飯を食べていた。このあたりから私の記憶が始まる。春には花見をし劇場を借り切っての宴会、秋には紅葉狩りの後芝居を見ながらの宴会、土方や大工や左官を二台のトラックの荷台に乗せて四町歩の田んぼの稲刈りをし芝居小屋を三日借り切っての宴会をするほど戦後の佇まいの中でやってのけていた。母は何棟もあった飯場を仕切っていた。
ある日突然に家中のものに差し押さえの紙がぱたぱたと張られた。
破産であった。朝鮮総連の連帯保証人になり全財産を失った。今まで「おやじ、おやじ」と慕っていた大工が手のひらを返すように去っていった。言葉巧みにすり寄り米をねだり金を毟った連中だった。今の古い建設会社の人たちである。
 母は子供達の為に仕事を始めた。製材所でおがくずを前身浴びて帰ってきた。その顔はなぜか生き生きとしていた。私も貧しかったが元気に遊び回っていた。
「貧しくてもいいおまえがいれば」母はそう言っていた。
 手伝いの稲刈りやい草かりも朝早くから出て行った。そんな百姓仕事をしたこともない母が子供のために働いていた。父は何処へ行ったか分からなかった。時折帰ってきては直ぐに何処へ行くのかいなくなっていた。父が帰ってきたときには母はうれしそうだった。夫婦とはそんなものなのかと思った。私が高校生の三年生の冬に母は脳溢血で倒れた。半身不随の後遺症をもち回復していたが・・・。その後年には父が今までの懺悔でもするかのように看病をした。おしめを替えご飯を口に運んでいた。
 その姿は老いた夫婦そのものであった。過去の悔いを流しているように見えた。
 今は私の思い出の中に残っていて時折微笑んでくれる。鬼籍の人になって三十八年、私と家人が結婚して直ぐに父は思いを残して旅だった。その後を母は追うように逝った。
 母の一生はどであったろう、と考える日が多くなっている。 
 家人の姿に母の姿を見ている自分がいる。父の生き方を反面教師としてみて生きてきたが、遊び人を通している私に何も言わずに付いてきてくれている家人は母に酷似して見える。過去を償う為に家人に何をするべきかを考えているが・・・。母への孝養なのだと思える・・・。

国民文化祭が残したもの・・・。

 国民文化祭の公演のアンケートが送られてきた。倉敷市芸文館アイシアターで公演したものである。
 花筵を織り続けた女の一生を書いた物、一人芝居で1時間十分。原稿用紙で約四十枚をよどみなく間を大切にして演じきった。二百のキャパを百五十にゆったりと椅子をおいた。観客は満員。客入れを生のギターが迎える。五分前にお礼とご案内。1分前に客殿の明かりが落ちる。しばし暗闇、細い明かりが下手におり仏壇と花筵を浮き上がらせる。上手の明かりがおり生のギターで「赤とんぼ」が舞台の開幕を告げる。あかりが花筵を引き詰めた舞台を照らす。小さな仏壇と花筵と障子と衝立の簡単なもの。
 開幕である。
 私はそこまで控え室のモニターを見て外に出た。作者である私は自分の書いた舞台を客席で見たことがない。一回公演というのも見ない所以なのかも知れない。何日も続くのであれば客席で見て、客席の反応をも確かながら幕が下りたら手直しをするだろうと思う。果たしてそうであっても客席で見るだろうかと、幕が上がれば舞台監督が全権を掌握して進めていくのだから作者、演出の出番はないのだ。今回の公演は台本を書いて演出に渡したところで役割は終わっている。時に演出をするがそれでも本番を見ることはなかった。二百近く書いて上演していると一々気にしてついて後悔する事にも馴れていたから、その場で後悔することを避けていたのかも知れない。国民文化祭だからと言っても変わりはない。
 孫二人と家人を乗せて町を走った。つまり子守である。孫の父が演出をし、母が進行をしていたので守は私と家人しかいなかっただけであった。当日は雨だったので車好きの孫達は外を走る車がよく見えなかったのかうとうととし出した。駅裏の方へ走った。私の住む水島と倉敷とは五キロほど離れているが、最近は倉敷の北に行っていなかった。国民文化祭の企画委員として会議の場所である市役所へ何度も行った程度であった。ごみごみしていた駅裏も綺麗に整備されていて目を見張るものがあった。チボリ公園のあったところは壊され片付けられて綺麗に盛土で整理されていた。このあたりにくると孫達は眠ってしまった。今から会場に帰ると幕前に着くとハンドルをその方向へ切った。
 花筵を抱いて最後の台詞を語っている。明かりが落ち稲妻の閃光が走る。崩れ落ちる、そこに落雷が轟く。
 観客の割れんばかりの拍手がやまない。
 舞台を降りてきた役者と握手をした。これで私の国文祭での役目も解かれると思うとホッとする。
 役者は拍手を貰えば貰うほどうまくなる。拍手は役者にとっての最大のご馳走なのである。
 昔の様に役者馬鹿はいなくなったが・・・。この成功でまだ台本を書かなくてはならなくなるのか。ゆっくりと考えようと思う。遊びで雑文を書いている方が愉しいことを知った今、果たして書けるだろうかと・・・。
 アンケートは手応えのあるものであった。

冬から春へ

 一月は行って二月は逃げて去る三月がもうすぐに来ようとしている。
 二月も二十日を過ぎようとしているが、中々寒さは去らない。今週は少し暖かくなる模様だ。
 今年の寒さには閉口した。寒波は二度やってきたが水道管が凍結して漏水で大変であった。早く気づけば良かったが寒さで外に出て見ることが出来ず漏水が何日も続いていることに気づかなかった。水道料を見てびっくりした。五万円も来ていた。家の回りを見て回ったら、川に漏水が勢い良く流れていた。周章てて業者に修理の連絡を入れたのだ。翌日来てそこは直してくれたが、メーターはまだ回っていた。あと1カ所漏れているのだ。くまなく水漏れを探したが見つからず水道局に電話して音波器で調査して貰ったら風呂の下あたりが漏れているという。今度は建設会社に電話して風呂の修理と思ったが新しくした方がいいというのでリフォームをすることにした。その日の夜、我が家の飼い猫の首に付けている鈴がないことに気づいて探していると水の流れる音が聞こえてきた。隣接する長男の家の洗面化粧台の下あたりから音はしていた。見ると水がしたたり落ちている。検査機器は何と当てにならないかと翌日修理に来て貰った。検針メーターはびくとも動かなくなった。今年の初めの水道代と修理代で十万円は消えそうである。無職渡世の遊び人には痛い。
 大変な冬の一コマである。
 倉敷というところは住んで四十一年になるが一度私が車を洗うのにひいた塩化ビニールの管が寒波で砕けそれ以来で今年のことで二度目。
非常に温暖な食べ物の美味しいところなのであるが、地球温暖化の影響で寒冷化したのか水道管が凍結し漏水することになったのだ。私は地球温暖化が二酸化炭素の影響と真実信じせっせとエコに励み電力は使わないようにし車もエコカーに変えてゴミの分別もきちんとしていた。が、今年の寒さでそれがどうも怪しいと思う様になった。武田邦彦さんの言うとおり寒冷化にむかっているのではないかと密かに思うようになった。この寒さは私が老いているからでなく万民皆寒いのだ。石油をけちりストーブをあまり焚くこともなかったが今年は炊かなくてはおられない寒さなのだ。エアコンと石油ストーブの比較もしてみた、やはり安くて暖かいのはストーブであった。もう二酸化炭素がどうのと言っておられなかった。物を書いているときには頭が熱くなるので寒さも忘れるのだが本を読んでいるときにはがたがたと震えた。
 珈琲、砂糖、大豆、小麦の値上がり、私の様に貧しいものが出来るのは上がる前に少しでも買いだめすると言うことしかない。僅かの貯金をはたいて買っている。今年の様に寒くて寒冷化するとなるとたちまち食料が枯渇する。そんなに長く生きようとは思わないが少しは努力して見たいと思うが心理ではあるまいか。地球が寒冷化すると今地球上に生きている人間の人口の半分は餓死するだろう。動植物にも言える。人間なんて偉そうに言っているが自然の前では平伏すしかないのだ。日本も江戸時代には二千何百万人しか生きていなかった。それだけの人間しか食べるものがなかったのだ。自給自足でいいと思う。働かざる者喰うべからずである。そうなれば私の様な遊び人はおさらばである。買い置きの煙草を吹かすしかないのだ。
 冬から春へ季節が移り変わろうとしている。剪定した薔薇の木もようやく幹に芽を吹き出している。どうもこれは神様の思し召しである。春が来ているからそろそろと準備をしなくてはいけませんよと言う声が聞こえるらしい。人間にその声は聞こえない。動物の本能、勘が鈍くなっている証拠なのである。予知能力の欠如である。雲の姿が変わったのに寒くて気づかない。冬の雲と春の雲の区別が出来なくなっているのだ。どうして人間という動物は退化したのか、環境を勝手に都合の良いように変えた罪なのか。そのくせエコがどうのこうのと忙しくしているのだ。おかしな生きものであると思う。自然に感謝の念が失せたせいか、何でも出来ると言う傲慢な故か、自分で自分の首を絞めていることに気づかない。やはり人間は愚かなのか。文明を追いかけて本能を喪失したのか。
 鬱の病と闘っている者にとっては春は受難の時なのだ。花粉症の比ではない。鬱の薬を飲むと言うことは脳を錯覚させていることなのだ。
時にその錯覚が不幸をもたらす。死への誘いである。決まっている寿命が来たという錯覚なのだ。生きる気力の喪失である。西行のように春櫻の下で死にたいという願望がむくむくと立ち上がるのだ。明日も今日と同じなら死んでも良いという心境になるのだ。目的、目標がないのだ。私がその淵から救われたのは演劇を創るという事だった。書いた物が演じられ観客がそれを見てどのような反応を表すかという好奇心であったのだ。私はその藁にすがった。いや、神様が垂らすクモの糸だったのかもしれない。必死にすがり登ったのだ。私のあとから糸にすがって登ってこようとしている者に頑張れと声をかけながらである。人は一人では生きてはいられない、仲間が欲しかったのだ。それはもしかしたら神様に仕組まれたものであったのかもしれない。どうだっていいみんなでその地獄からはい出たかったのだ。
 春になると鬱であった時のことを思い出すのだ。当時の生きる苦しみに比べたら水道代が十万来ようとも今を有り難いと思う。地球温暖化がウソでも許されると思う。とにかく今を生きることで誰かを幸せにしたいというあのとき感じた事が出来る事への感謝である。
 感謝を忘れたら生きる喜びは半減することを今なって感じているのです。




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